石川啄木 の名言【明治期の偉大な詩人のことば】

石川啄木 名言

石川啄木の名言には、「働けど働けどなほ、我が暮らし楽にならざり、ぢっと手を見る」「たはむれに、母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」などがあります。
今回は、明治時代を代表するの詩人のひとり、石川啄木の名言をご紹介します。
 
 

石川啄木の略歴・生涯

石川 啄木は、岩手県出身の日本の歌人、詩人。「啄木」は雅号で、本名は「一(はじめ)」。

旧制盛岡中学校中退後、『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現し、満19歳で最初の詩集を刊行した。しかし経済的事情から代用教員や新聞記者として勤める傍ら小説家を志すも失敗、東京で新聞の校正係となってから1910年に刊行した初の歌集『一握の砂』は三行分かち書き形式で生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得る。また同年に起きた幸徳事件(大逆事件)を契機として社会主義への関心を深め、文学評論も執筆したが、結核により満26歳で没した。

wikipedia

 

氏名 石川 啄木(いしかわ たくぼく)
職業 歌人、詩人、評論家
出身地 岩手県
誕生 1886年2月20日
死没 1912年4月13日
享年 26歳


 
 

石川啄木の名言セレクション

 

働けど働けどなほ、我が暮らし楽にならざり、ぢっと手を見る

– 石川啄木 –

 

労働者の悲哀を例えるとき、よく引用される有名な詩の一説。今よりも、もっと日本が貧しかった時代に詠まれた詩ですが、現代でも労働者の状況は大きく改善したかどうかは賛否あるところです。ただ、現代では働く以外にも投資などで収入を得る手段が開かれています。その点で、労働で稼ぐほかなかった時代よりはいくらかマシなのかもしれません。


 
 

たはむれに、母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

– 石川啄木 –

 

世の無常を感じる一節です。普段親元を離れ暮らしていたりすると、たまに実家に帰って再会した時の親の姿がひとまわり小さくなったように見えるもの。子供の頃あんなに頼っていた姿が、次第に小さくなっていくのはなんとも言い難い寂しさがあります。「孝行したい時に親はなし」とも言うように、ご両親への恩返しは、やはり早くしておくに越したことはないでしょう。


 
 

詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならない。

– 石川啄木 –

 

石川啄木は結核に倒れ、わずか26歳でこの世を去りました。そんな啄木の詩が今でも私たちに語り継がれている理由が、この言葉に見える気がします。日記のように素直に感情の変化が綴られている言葉は、いつの時代も人の心を捉え動かす力がある、と言えそうです。


 
 

必要は最も確実なる理想である。

– 石川啄木 –

 

この場合の理想とは、「正しい目標」に置き換えられるかもしれません。自分や社会にとって「必要なもの」こそが第一に形にすべき事柄、すなわち理想と言えるのではないでしょうか。また、「必要」には物事を前に推し進める力もあります。必要に迫られたときこそ、物事はあるべき姿へと自然と動き始めていくのです。


 
 

人といふ人の心に 一人づつ囚人がいて うめくかなしさ

– 石川啄木 –

 

心は、基本的に思い通りにならないものです。嫌なことがあれば落ち込みますし、良いことがあれば上向きます。目覚めた時の体調にも幾分左右されるでしょう。もし、仮に人の意識が心という監獄に閉じ込められているとしたなら、さながら我々の人生は心という監獄に閉じ込められているようなものなのかもしれません。暗い印象の詩にも感じられますが、心の性質を深く知るという意味で、とても示唆に富む考え方だと思います。