バーナード・ショーの名言には、「中才は肩書きによって現れ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。」「健全な肉体は健全な心の生産物だ。」などがあります。
今回は、近代演劇の確立者として知られるアイルランド出身の劇作家、バーナード・ショーの名言をご紹介します。
バーナード・ショーのプロフィール
ジョージ・バーナード・ショーは、アイルランド出身の文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。若年から「ジョージ」のファーストネームを毛嫌いしており、多くの著作はこれを省いたバーナード・ショーの名で執筆しているため、このジョージ抜きの名でも知られている。
ヴィクトリア朝時代から近代にかけて、イギリスやアメリカ合衆国など英語圏の国々で多様な功績を残した才人として知られる。
氏名 | ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw) |
職業 | 劇作家、劇評家、音楽評論家、政治家、教育家 |
国籍 | イギリス |
誕生 | 1856年7月26日 |
死没 | 1950年11月2日 |
享年 | 94歳 |
バーナード・ショーの名言
中才は肩書きによって現れ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。
良くも悪くも、人は何かしらの肩書きや役割を担うことで生活しています。例えば、あなたが学生だったとしても、「学生」という肩書きを背負って暮らしている、と見ることができるのです。肩書きを邪魔にするような天才はわずかな割合でしか存在しないため、まずは肩書きの名を汚さないような生き方を心がけたいところですね。
愚者は自分が恥ずかしく思うことをすると、それは自分の義務だと言い張るものだ。
言い換えれば、やりたくないもないことを「やる以外の選択肢はなかったからやった」と自分に言い訳をしているのかもしれません。人生で避けれらないことは確かに存在しますが、そんなに多いわけではないはずです。何かをしている自分を許すことができないくらいなら、それをやらない道を選ぼうと足掻くことも大切です。
最も悪質の犯罪は貧困である。
世の中にはやむを得ない事情で貧しい暮らしを強いられている人は一定数存在します。しかし、国そのものが貧しいならいざ知らず、日本のような恵まれた国ならば、貧しさから抜け出すことは不可能ではないはずです。貧しさは、多くの犯罪の根本的な原因となり得るもの。そこから抜け出せる可能性が残されている以上、抜け出さない手はありません。
人間が賢くなるのは経験によるものではなく、経験に対処する能力に応じてである。
これは経験以外にも、「年齢」という言葉にも当てはまります。年齢を重ねたからとて、それに相応しい能力が身に付くとは限りません。1の経験から1を学ぶ人がいれば、10の学びを得る人もいるものです。結局は、経験や年齢をただ重ねることが重要なのではなく、そこから何かを学びとる力を養うことが重要なのです。もちろん、これはこの能力には個人差があるので、焦らずに地道に高めていく他ないでしょう。
学問した人間は、勉強によって時間を費やす怠け者である。
学んだことを学んだままにしてアウトプットしないのは時間の浪費だ、という主張。学んだことをアウトプットできないという人は、今一度勉強する目的を明確にしたほうがいいかもしれません。そうしないと、出口のない道に突き進むことになりかねないかも。
人が虎を殺そうとする場合には、スポーツといい、虎が人を殺そうとするときには凶猛という。
人の脳は自分の都合よく物事を捉えている、と言われますがこの言葉が意味することは、その典型的な例に思えます。物事を一つの角度からだけ見ることは、思考の偏りを生むので避けるべきです。
われわれの人類に対する最大の罪は、彼らを憎むことではなく、無関心であることだ。
「愛の反対は無関心」と言われますが、この言葉の意味することも似ているように思えます。人生経験を通じて、様々な出来事を「自分事」と捉える感性を養っていきたいところです。
健全な肉体は健全な心の生産物だ。
心の状態は、ダイレクトに肉体に影響を及ぼします。よってまず心を整えることで、肉体の調子も自ずと整ってきます。心と体はもちろん両方とも大切な財産ですが、目に見える体よりも目に見えない心の方にこそ、より意識を向けるべきなのかもしれません。
ある時代において目新しいものは、その二世代前に流行ったものの復活版にすぎない。
歴史は繰り返す、とよく言われますが、これは時代が変われど人の本質は変わらないということの証明なのかもしれません。同じように、流行も一巡して、また同じものが流行ったりします。逆に言えば、これから流行るものを予想する時、ヒントは過去にあることを示しているのです。
自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を怖れる。
すべて自分で決められるということは、すべての結果の責任を自分が背負うということと同義です。しかし、多くの人は自由は求めても、責任は回避しがちですよね。だからこそ、責任を取る覚悟がある人こそが、真の自由を手にすることになるのでしょう。